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日々新たに                                   2019年 330


この言葉の語源は、中国の古代の殷王朝を開いた湯王が言った言葉として

“苟日新、日日新、又日新”(まことに日に新たに、日日に新たに、また日に新たなり)が原典であります。
これが中国古典の「大学」伝
2章に収録されています。後に、日本の行政改革に取り組まれた土光敏夫さんが言わ
れた
「日に新たに、日日に新たなり」という言葉でクローズアップされました。

湯王は、今から3700年前に殷王朝を開いた人物です。自分が使用する盥(たらい)に、この日に新たの銘を
刻み、この水で垢を洗い落とすように、常に自らを常に新しくしていかなければならないと戒めたと言います。


土光さんが、言われても、みずみずしさのある、なんと素晴らしい言葉なのでしょう。

人間は生きていく中で、いつしか惰性に陥り、倦怠、停滞していつしか精神的に老化し、生命力を低下させてしま
います。

逆に、精神を高い志で刺激し、新たな感動を見つけて行けば、いつまでも若々しく老いる事なく生きていけるとい
うものです。



なにに感動をするのかです。

日々の出来事をありきたりの出来事と感じてしまってはいないでしょうか。

私たちが、ものこころついたころは何をみても感動し、好奇心をもって生きていました。

歳をとったから、感動しなくなったのではなく、感動する心を磨けなくなったから、歳をとったといった方が
良いのかもしれません。



日常を振り返ってみて、倦むことはないでしょうか。

倦むとは、毎日に飽きるとか、平坦な状態に嫌気がさすことを言います。


本来は、私たちの周りは、驚くべき感動に満ち満ちているといってもいいのです。

こうして私たちが存在し続けていることすら奇跡といえるようなひと時なのです。


それに対して、惰性、倦怠で感動を置き去りにしていることはなんともったいないことだと思うのです。


私たち人間は、人の顔を見る時それぞれの違いは瞬時に見分けることができるようになっています。
それに対して、例えば町でカラスを見たときにどのカラスも同じと見てはいないでしょうか?

カラスも我々人間と同様、2つと同じものはありません。それを同じと見ているのは私たちの心なのです。
違いが分かればそれだけで感動が増えます。


同様に道の片隅に生えている草草にも同じことが言えます。


そこに感動を見出すだけで、私たちの人生はどれだけ感動を感じられるものになるか。


それを見出す努力をすることが、私たちが生きて行くうえでいつまでも、老いずに生きていける秘訣と言えると
思うのです。


こうした、わずかな違いを日常の生活の中に見出し続けることが、生きて行く中に瑞々しさを失わないことに
つながります。


我々が、あたらしく迎える今日という日に同じ日は決してありません。


昨日に比べ草は伸びているし、生き物は進化しようと生き続けています。

私たちのこころの中に、この進化を見いだせたときに、日に新たなりが実感できると思うのです。