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三つの心                                    2023年 1月 1


あなたはご自身の身内である、祖父、祖母の死期にお立ち会われたことはありますか。

人が死ぬとき、生前と明らかに変化があることを感じ取れるものがあります。

いわゆる生気が抜けるというものを感じるものです。


この変化は明らかなものですが、物質的に、あるいは精神的には何が変わったといわれると言い表しがたいもの
があります。


生きていた時にあった生気が抜けていった、いわゆる見えない気体が体を離れた瞬間であるといえるといえます。

翻って、あなたご自身が生命を得た瞬間に思いを馳せてみましょう。

母親の胎内で命を得たときはどうだったでしょうか?

命が宿った瞬間というものは、本当に無垢の状態ということは何となく理解できると思います。

生気が宿ったといえるのでしょう。

宿って、抜けていく気は、不滅、不死であるのは何となくわかるのではないでしょうか。

この気が我々人間の根幹にあります。




そして、生れ出てから、飲んで、食べて、眠ることを余儀なくされるようになります。

この栄養補給、呼吸、排出作用に伴って作られてくるのが本能心です。

生命を体を維持し続けるのに必要なものを欲する心です。

この心は、人間だけでなくあらゆる生物に存在しているものです。


そして、われわれ人間は、成長するに従い理性心というものが芽生えてきます。

生きるための欲求を満たしたあとは、より良くとか、より効率的にという心です。

この心は時間とともに成長していく心です。


新しい発明や発見というものはこの理性心で生み出されています。

理性心は、今のところ人間にしかありません。

だんだん成長するということは、相対的であるものだといえます。

ですから、人間寿命を迎えると当然のことながら理性心も本能心も滅びてしまうことになるわけです。

こうして滅びてしまう心に対して、初めに述べた我々人間の根幹に宿る気というものは滅びないわけです。






そしてこの気についている心があります。

不滅の霊魂についている心で、霊性心と呼ばれています。

肉体に根ざして発現してくるのが本能心、精神に根ざして発現してくるのが理性心、

霊魂に根ざして発現してくるのが霊性心といえるわけです。

私たちが日常生活している中で、本能心とはしょっちゅう向き合っています。お腹が減った、眠くなった。

で食べたり、寝たりしています。


理性心とも、また同様に向き合っています。

人間は起きている間中は常に何かを思ったり考えたりしています

この思ったり考えたりする中で、本能心に根ざしたもの以外は理性心と

いえるのではないでしょうか。物事の善悪邪正、是非曲直を判断するのは、すべて理性心です。

これらの本能心、理性心というのは、相対の世界の心ですから常に外乱によって揺さぶられているわけです。

これに対して霊性心は、滅びることのない霊魂に根ざして発現してくるので外乱に揺さぶられることはない

わけです。





ただこの霊性心に日常の生活でどれだけ向き合えているかかが問題になってくるわけです。

多くの人は大概は霊性心に気づいていないのが現状です。

人によっては、本能心主体で生きているという人も相当いるのではないでしょうか。

これでは、池の中の鯉と何ら変わるところがありません。

また理性心がすべてと思って生きている人も相当いるのではないでしょうか。

理性心が万能のように考えて行動してもどこまでも相対の世界ですから心が休まることはありません。

では霊性心とは。ということになるわけです。

これは、いのちのもつこころ。人間の本心、良心といわれるものの中にあります。

人に対する純粋な思いやりの心がこれに相当します。

こうした心で日常の生活をどれだけ送れているかということになるわけです。

すべてをこの心というわけにはいきませんが、どれだけこの心の状態に浸らせることができるかなのです

この状態を霊性満足の生活と言っています。

思いやりの気持ちに満ちた、情け深い心の状態。

この心は相対ではありません。

人間としての本然の心ですから、本当の安らぎがあるのです。

ここに心を浸しておければ本当の安らぎの生活を送ることができるのです

日々の生活の中で起こる、怒り、恐れ、悲しみ、悶えや煩悶を乗り越えて

生きていくのは、この霊性満足の心を開拓することなのです