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いのちの実相を知る                                2018年 331

私たちが生きていると感じ取ることのできる身体と心。

日常生活を営む上で、身体や心は無くてはならないものです。

でも身体や心で私たちは生きているのでしょうか?
身体や心で生きているとしたら、身体や心に何等かの処方をすれば、いつまでも生きていられる方法が見つかる
はずです。

ところが、身体や心にどんなことをしても死ななくなる方法は見つけることができないと思うのです。

私たちの日常を振り返って見てみましょう。私たちが寝ているとき、熟睡しているときを考えてみましょう。
この時は、痛み、苦しみ、悲しみ、などが無くなっていることに気づきませんか?歯が痛いときや怪我をして
痛くてどうしようもないとき、でも熟睡に入っている瞬間は痛みを感じていません。苦しさや悲しさについても、
熟睡中は同様に忘れてしまっている。

この熟睡の瞬間には私たちは生きていないのでしょうか。そんなことはありません。私たちは生まれてから、
今日まで、毎晩同じように熟睡の時間を過ごしてきています。


この時間を掘り下げてみましょう。この時間は、身体の支配下でないから痛みがなく、心の支配下でもないから
苦しみも、悲しみもないのです。




何の支配下なのか、あえて言えばいのちの支配下ということができると思うのです。このいのちこそが私たちの
実相なのではないでしょうか。

私たちの身体と心は、私たちが生を受けてから今日まで、日々成長し続けて現在に至っています。これに対して、
私たちのいのちというのはこの地球上に生命が誕生して以来、38億年の長きにわたって脈々と受け継がれてきて
いるものなのです。38億年のいのちと数十年の身体と心は比べるべくもなく圧倒的な差があります。

心と体は、私たちが生まれてから育ってきたもの。

いのちは、38億年にわたって脈々と受け継がれてきたものなのです。

この数十年のこころから、38億年のいのちを推しはかるということはとっても難しいことです。

かといって、心に思いや意志はあるが、いのちには思いも意志もないといえるでしょうか?

簡単に心や身体から、いのちにアプローチができないとはいえ、いのちに思いや意志がないとは言えないのです。

私たちが生きているのは、心や身体と思いがちですが、実際に生きているのはこのいのちなのです。

そして、私たちのこころとからだは、寿命とともに滅びて消滅していきますが、いのちは滅びるというよりは
大自然に戻っていくというほうが正しいのかもしれません。

私たちの身体は、痛みを感じ、暑さ寒さを感じ、花が咲いていることを感じます。

その身体からの感受性能によって、私たちのこころは、苦痛に伴う煩悶を思い、気候や雰囲気に伴う快適や不快を
思い、花の満開の美しさに感動します。

そうした日々の中で私たちのいのちは、生きていくことをひたすらに営んでいます。

だから、身体やこころからは、いのちに対してできるだけ快適な思いを伝え続けてやることがとても大切なこと
なのだと思うのです。

ストレスが多いと長生きができないという真理がここにあります。

このいのちの実相を知って生きていくということがどれだけ大事なことか。

それは、日常生活しているなかで我々からの目での生態を見ているように、いのちの実相から私たちのこころと
からだをみると蟻のように見えるに違いありません。

それを念頭に、いのちからの目で私たちのこころとからだを見てみることで私たちの生きるべき方向が見えてきます。



いのちの実相とは、38億年にわたり生きて生きて生きぬくという法則が我々生命の中には脈々と受け継がれています。

そして、適者生存に基づく法則に基づきよい良い形に進化していくということも私たちのいのち中には組み込まれて
います。

そして、私たち活きるものは今日より明日より良くなっていこうというプログラムも組み込まれているのです。

このいのちの思いを生きている私たちの身体とこころに浸み込ませて、いのちの思いに沿った生き方をすること
が真の幸福に生きる生き方なのだと思うのです。