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随所に主たれ                             2017年 9月 9

 この言葉は、「随所作主、立処皆真」随所に主となれば、立処皆真なり。

という、臨済宗の開祖、臨済義玄禅師が修行者に向けて言った言葉です。

この主こそが、とても大事な意味を持っているのです。

何に対しての主なのでしょうか?

これは自分自身の人生に対しての主(あるじ)であれと言っているのです。

私たちが日常生活しているとき、なんとなく気なしに過ごされていることはないでしょうか。知らず知らずの間に
仕事に使われてはいませんか。

いつの間にかお酒のとりこにされてはいませんか。

自らの人生という観点で見たとき、いかなる状況においても対象に組み敷かれてはならないのです。

人の命は尊いものだと誰でもが分っています。それはお金には替えることができないものです。

たとえ、何千億円を積まれても、それとはとても引き換えることができないものです。

それが、いつしかお金に組み敷かれてしまい、お金の方が命より尊いと勘違いしてしまう。




今の世の中を見たときに、何かに組み敷かれて生きている人があまりに多いことを感じざるを得ません。
自分の人生のあるじであり続けることはそんなに簡単なことではないようです。
誰にでも本能というものがあり、本能の赴くままに生きていると、いつの間にか組み敷かれてしまう。

この世の仕組みが、そのようにできています。

どうしたら良いのでしょうか。

そのキーは、寝る前のひと時にあります。日常の生活で、いろいろなものに引きずりまわされてきた、ご自身の
こころをご自身のものとして取り戻してやることなのです。たとえ、どんなにいやなことがあろうとも、今から
休むひと時は、誰にも邪魔されないとても神聖な時間であるはずです。

そのために、まずは休む前に、心を清らかな状態に戻してやる。

そして、ご自身を何にも組み敷かれない状態にしてやることなのです。

そうすれば、これから休みに入る数時間は、少なからずご自身の主であり続けられます。そして、これを習慣に
してしまうことなのです。


翌朝は爽快に目覚められますから、今日一日主たろうと決意して一日に臨むことです。すぐには、主たりえませ
んが、少しずつ主たる時間が増えてきます。日々過ごすとき、随所に主たれと自らに投げかけてやることです。

客観的に自分が見えてきます。




日常を生きていく中で、対人間、対仕事、対お金、対もの いろいろな情景に直面します。
どんな情景にあったとしても、自分は自分の主であり、どんな情景であれ組み敷かれるものではないのです。

特に、対人ではいろんな言葉をぶつけられます。でも最初に言ったようにどんなお金の価値にも置き換えられ
ないほど大事な命なのですから、それは組み敷かれるようなものではないのです。

言われる人には言わせておけばよいのです。

それはそれとして、ご自身の命はご自身の人生に対してあるじであり続けることにこころを傾けるべきです。

そのこころで生きていくなかで、どう人、もの、金に向き合っていくべきかを考えるべきです。

いのちを他にゆだねず、人生を自分のものとして、あるじであり続けて生きていきたいものです。